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キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

ウェスレー『奴隷の霊と子たる身分を授ける霊』

『奴隷の霊と子たる身分を授ける霊』ウェスレー標準説教9
「カトリック海外記事」のサイトから
http://d.hatena.ne.jp/JosephGemma/20090423
(野呂訳や藤本訳ではない上記サイト運営者の個人訳のようです)

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」 (ローマ八の15)

(1) 聖パウロはここで、信仰によって神の子となった人びとに話しかけています。「あなたがたは」 まことに神の子であり、神の御霊を飲んでそれにひたり切っていると、彼はいいます。「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではない」、むしろ「あなたがたは子であるのだから、神はあなたがたの心のなかに、御子の霊を送ってくださったのである」。「あなたがたは子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。」

(2) 奴隷と恐れの霊は子たる身分を授けるこの愛の霊とひじょうに遠く離れたものであります。奴隷的な恐れの影響だけを受けた人は 「神の子」 と呼ぶことはできません。しかしそのうちのある人びとは神の僕の姿をしており、「天国から遠くない」 のです。

(3) しかし人類の大部分、いな、キリスト教世界と称されるものの大部分がこの程度にさえ到達しておらず、それからなお遠くへだたっており、「彼らの思いのうちにはまったく神はない」 のです。神を愛する者の名を挙げようとするとおそらく少ししかいないでしょう。神を恐れる人はもう少し多いかもしれません。しかし大部分はその目のまえに神にたいする恐れがなく、その心のなかには神にたいする愛がないのです。

(4) たぶんあなたがたのほとんどのかたが、いまは神の憐れみによってよりよき宝にあずかっておられますが、かつては彼らと同じであり、同じ断罪のもとにあったときのことをご記憶でしょう。しかしあなたがたははじめは、日々罪と血のなかにのた打ち回りながら、時きたって 「恐れをいだかせる霊を受ける」 (受けるのです。というのは、これも神の賜物だからです) まで、それを知らなかったのです。そののちに、恐れは消え去り、愛の御霊があなたがたの心を満たしたのです。

(5) 恐れも愛もない心の第一段階にある人のことを、聖書は 「生まれながらの人 (natural man)」と名づけています。奴隷と恐れの霊のもとにある人はときどき 「律法のもとに (under the law)」 あるといわれています (この表現はそれよりもしばしば、ユダヤ教的秩序のもとにある人や、自分がユダヤ教の律法に定められた祭式や儀式を全部守らなければならないと考えている人をあらわすために使われますが)。しかし、恐れの霊を愛の御霊といれ変えた人は、適切にも、「恵みのもとに (under grace)」あるといわれています。

さて、私たちがどの霊に属しているかを知ることはひじょうに大切なことですから、私は第一に 「生まれながらの人」 の状態を、第二に 「律法のもとにある」 人の状態を、第三に 「恵みのもとにある」 人の状態を、明確に指摘するよう努めたいと思います。

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では最初に、「生まれながらの人」 についてです。このことを聖書は 「眠っている状態 (a state of sleep)」と言いあらわしています。神は彼にたいして 「眠れる者よ、起きよ」と御声をかけられます。なぜなら彼の魂は深い眠りにおちいっているからです。その霊的感覚がめざめておらず、霊的な善も悪も識別できません。彼の理解力の目は閉じられており、封印されていて見ることができません。いつも雲と闇におおわれています。なぜなら彼は死の陰の谷のなかにいるからです。したがって、霊的な事柄に関する知識の入口がないので、彼の魂の道はことごとく閉ざされ、彼は自分が最も知りたいと思うことについて、粗野で愚かしい無知の状態にあるのです。彼は神に関してまったく無知で、神について知るべきことをなに一つ知りません。彼は神の律法とその真の内的・霊的意味についてまったくの門外漢です。彼は、それなしにはだれも神を見ることのできない、福音的聖潔 (evangelical holiness) について、また 「そのいのちが、キリストとともに神のうちに隠されている」 人だけが見いだすことのできる幸福について、なにも考えられません。

(2) そして、彼が深く眠っているというまさにこの理由から、彼はある意味で安らかであります。彼は目が見えませんから、安全でもあります。彼は「なんの。私には悪いことはなにも起こりはしないさ」といいます。闇が四方から彼をおおっているので、彼は一種の平安のうちに置かれています。もっともそれは平安が悪魔の働きや、地的・悪魔的な心と共存することができるかぎりにおいてのことであります。彼は自分が穴のふちに立っているのが見えません。だからそれを恐れないのです。危険を知らなければ、おののくことはありえません。恐れるだけの理解がないのです。なぜ彼は神を恐れないのでしょうか。それは彼がまったく神を知らないからであります。彼は心のなかで 「神は存在しない」 とか、「神は天の環のうえに坐してひかえ目にしておられ」 「ご自分は地上でおこなわれることを見」られないのだとかいいはしないにしても、「神は憐れみに富みたもう」 といって、自己満足におちいり、あらゆる快楽主義的な意図と目的に走り、神の神聖性や罪にたいする本性的嫌悪、神の義と知恵と真理のいっさいを、たちまちやっかいな憐れみという観念と混同し、それに吸収させてしまうのです。彼は神の祝福された律法を理解しないので、それにしたがわない者にたいして弾劾を加えるところの復讐を恐れないのです。彼は、律法の要点とはあれこれ行なうことであると、外面的に落度のないことであると空想し、それがいっさいの心の気質、願望、思惟、動きにまでおよぶことを知りません。また彼は、キリストが来られたのは 「律法と預言者を廃する」 ためであり、彼の民を、その罪からでなく、罪のなかにあるままに救うためであり、彼らが聖潔を得ずとも天に導くためであるかのように空想するのです。しかしキリストご自身の御言葉は 「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとくまっとうされる」、「私にむかって『主よ、主よ』という者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨をおこなう者だけが、はいるのである」 であります。

(3) 彼は自分自身についてまったく無知であるゆえに、安全です。だから 「だんだんに悔い改めてゆく」などというのです。彼はそれが明確にいつかということを知らず、死ぬまえのいつかだろうと思っており、それがまったく自分の力でできるということを自明のこととして考えています。なぜなら、彼がやろうと思えば、なにがそれを拒むでしょうか。もし彼がひとたび決心をしたならば、心配しなくても彼はそれを立派にやりとげるでありましょう。

(4) しかしこの無知は、知識人と称される人びとにおけるほど強くあらわれることはありません。もし生まれながらの人がこの種の人間のひとりであるなら、彼は自分の理性能力や意志の自由や、人間を道徳的主体として構成するためのそのような自由の絶対的必然性などについて長々と語ることができるでしょう。彼は、すべての人は意志するとおりになしうるのであり、自分の目によしと見えるとおりに、善であれ悪であれ、自分自身の心を動かしうるのだということを、読みかつ論じ、かつ証明します。こうしてこの世の神が、「キリストの栄光の福音の輝きを」 まったく 「見え」なくさせようとして、彼の心に二重の暗幕をひろげるのです。

(5) 自分自身と神とにたいするこの同じ無知から、生まれながらの人のなかに、ときどき自分自身の知恵と善性を愛する一種の喜びがあらわれることがあります。彼はしばしば、この世が喜びと称するものを所有しています。彼は、肉の欲や目の欲、生活上の誇りなどを満足させることによって、さまざまな喜びを得ることができるでありましょう。とくに彼が富んでおり、豊かな幸福をたのしんでいる場合にはそうであります。そのとき彼は「紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊びくらす」こともできましょう。そして彼がこのように順調に暮らしているあいだは、疑いもなく人びとは彼をよくいうでしょう。彼らは 「彼は仕合わせな人だ」というでしょう。着て、訪問して、話して、食べて、飲んで、起き上がって遊びに行くこと、まことにこれがこの世の幸福の総計です。

(6) もしある人がこのような環境において、へつらいと罪の麻薬を盛られて、白昼夢のうちに、自分が大いなる自由のうちを歩んでいると空想したとしても、少しも驚くことはありません。なんと容易に、彼は自分自身にいい聞かせて、自分はあらゆる俗人の誤りや教育上の偏見からまったく自由であり、まったく正当に判断し、あらゆる極端から一線を画していると信じこむことでしょうか。彼はこういうかもしれません。「私は、弱く狭い魂から出るあらゆる熱狂主義から、いつでも過度に正しくあろうとする愚か者や臆病者が罹る迷信という病気から、自由で広らかな考え方をしない人にたえずありがちな頑迷さから、自由である。」このような人が、「上から来る知恵」、聖潔と心の宗教と、キリストにあるまったき心からもまったく自由であることも、きわめて確かなことであります。

(7) このようなとき、彼はいぜんとして罪の僕であります。彼は多かれ少なかれ、日々罪を犯しています。しかし彼は思いわずらうことがありません。ある人がいったように 「彼は奴隷状態にはない」 のです。彼はなんのとがめも感じません。彼は (キリスト教の啓示は神から来たものであると信じていると公言しているとしても)、「人間は脆い。われわれはみな弱い。すべての人は病んでいる」ということで満足しているのです。たぶん彼は聖書を引用して「なに、ソロモンが、正しき人も一日に七度罪に倒れるといっているではないか。そして隣人よりも善良であるかのようによそおう人はすべて偽善者であり熱狂主義者である」というでありましょう。もし彼が真面目に考えざるをえなくなったとしても、そのときはいつでも、「神は憐れみ深く、キリストは罪人のために死なれたのであるから、なぜ私が恐れる必要があろうか」といって、できるだけその考えを抑えるのです。このようにして、彼は、腐敗の奴隷であることに満足し、内的にも外的にも汚れに沈み、しかもそれに満足し、罪に、とくに自分が犯しやすい罪に打ち克とうとしないのみならず、打ち克とうと努力することさえせず、喜んで罪の奴隷でありつづけるのです。

(8) これが生まれながらの人の状態です。彼が粗野でスキャンダルな犯罪人であろうと、善にたいする力はもたないが形は保っている、より評判のよい上品な罪人であろうと同じです。しかしそのような人にどうして罪の自覚をもたせることができるでしょうか。どのようにして彼が悔い改めに導かれ、律法のもとにあり、恐れをいだかせる奴隷の霊を受けるように導かれるのでしょうか。この点を次に考察しなければなりません。

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(1) ある恐るべき摂理や、御霊の証明をともなって具体的に語りかけられる御言葉によって、神は暗黒と死の陰に横たわって眠っている人の魂に触れられます。彼ははげしくゆり動かされて目ざめ、自分の危険を意識するのです。あるときは瞬間的に、あるときはしだいに、彼の理解の目が開け、そのときはじめて (おおいが部分的に取り除かれて) 自分の置かれている状態を知ります。恐ろしい光が彼の魂にさし込んできます。それは底なしの穴から、最深の淵から、硫黄の燃える火の湖からさしてくるかのように思われる光です。ついに彼は、愛と憐れみの神はまた 「焼きつくす火」であること、また彼は正しくかつ恐るべき神であって、すべての人にその業に応じてむくい、すべての無益な言葉、いな、心の想像にたいしてすら、不敬虔な者を審きたもうことを知るのであります。いまや彼は、大いなる聖なる神は 「目清きがゆえに悪を見られない」お方であり、ご自分にそむく者すべてに報復し、悪人の面前で報いたもうこと、そして 「生ける神の御手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」ことを、明瞭にみとめるのであります。

(2) 神の律法の内的・霊的な意味がいまや彼のうえにまぶしい光で輝きはじめます。彼は 「戒めはかぎりなく広く」「なにものもその光から隠されているものはない」ことを知ります。彼は、その一つひとつが外的な罪や従順に関係するのみでなく、神の目以外には見抜くことのできない、魂のかくれた奥で起こったことにも関係していることを知ります。いまやもし彼が 「殺してはならない」 という言葉を聞くと、神は雷鳴のように「兄弟を憎む者は人殺しである」、「兄弟にむかってばか者という者は、地獄の火に投げ込まれるほどに嫌われる」 と語られます。もし律法が「姦淫してはならない」 というと、「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心のなかですでに姦淫したのである」という主の声が彼の耳にひびきます。このように、あらゆる点において、彼は、神の言葉が 「生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭い」ことを感じます。それは 「精神と霊魂と、関節と骨髄を切り離すまでに刺しとおす」のであります。いな、それ以上であります。なぜなら彼は自分がかくも大いなる救いを無視し、彼をその罪から救いたもう「神の子を踏みつけ」、「契約の血を汚れた」、平凡な、潔からざる 「ものとし」 たからであります。

(3) そして彼は「神の御前には、顕わでない被造物は一つもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、顕わにされているのである。この神にたいして、私たちは言い開きをしなくてはならない」ことを知っているのと同じく、また自分自身が裸であり、自分が縫い合わせたいちじくの葉、すなわち、彼の貧弱な見せかけの宗教や徳、神にたいして罪を犯したことにたいするあさましい言い訳けをことごとくはぎ取られていることをも知っています。彼はいまや自分が、いわば、古代の犠牲のように、首から下にかけて真二つに裂かれており、したがって彼のうちにあるすべてのものは明らかにされていることに気づきます。彼の心は顕わにせられ、彼はそれがことごとく罪であること、「よろずのものより偽るもので、はなはだしく悪しき」ことに気づきます。それは口でいいあらわすことのできないほどに、まったく腐敗し、いとうべきものになっています。そのなかにはなに一つ善きものはなく、不義と不敬虔のみであります。そのすべての動き、すべての気質と思いは絶えずただ悪のみであります。

(4) そして彼は、えがきつくすことのできない魂の感情によって、自分の心の罪のゆえに、たとえ自分の生活が欠けなきものであったとしても (そのようなことは、「悪い木が良い実をならせることはできない」のですから、実際にはないことであり、ありえないことではありますけれど)、自分が消えることのない火に投げ込まれるに値することを、知っているのみならず、内的に感じるのです。彼は、「罪の支払う報酬」、とくに自分の罪にたいする正しき報いは 「死である」こと、まさに第二の死、死ぬことのできない死、地獄における肉体と魂の壊滅であることを感じるのです。

(5) ここにおいて彼の喜ばしき夢、迷妄の安息、偽りの平和、虚偽の安全は終わりを告げます。彼の喜びはいまや雲のように消え去り、かつて愛した快楽ももはや彼を喜ばさなくなります。それらは味気なくなり、彼はそのような吐き気をもよおすような甘さを嫌い、それに耐えられなくなります。

(6) これらの麻薬の煙はいまや吹き払われて、彼は傷ついた魂の苦痛を感じるようになります。魂のうえに解き放たれた罪 (それが誇り、怒り、悪しき欲望などであれ、我意、悪意、嫉妬、復讐心その他であれ) は、まったくの悲惨であります。彼は自分の失った祝福のゆえに、自分のうえに来たった呪いのゆえに、心の悲しみを感じます。このように自分を滅ぼし、自分にかけられた憐れみを軽蔑したことにたいし、悔いの念にかられます。神の怒りとその怒りの結果、すなわち神が正しくあたえたまい、それが自分の頭上にかかっているのを感じるところの審判にたいする恐れを覚えます。彼にとって地獄にいたる門であり、永遠の死への入口である死の恐れ、神の怒りと正義の報復の執行者である悪魔にたいする恐れ、たとえからだを殺すことができるにすぎないとはいえ、それによってからだと魂を共に地獄に投げ込むかもしれない人びとにたいする恐れ-------ときに、哀れな、罪深き、咎を覚える魂が、あらゆるものに、いな、なにもないのに、陰や、風の動かす木の葉によって恐れおののくほどに嵩じる恐れを感じます。まことに、ときにはそれは狂乱状態に近くなり、「酒を飲まないのに酔うた」人間になり、記憶も理解力も、あらゆる自然の能力が働かなくなってしまいます。ときにはそれは絶望の淵に近づき、死という言葉を聞いただけでもふるえるほどでありながら、「生命よりも息の止まることを選び」、いつそこに飛びこむかもしれなくなります。そのような人が、昔の人のように、心の不安のゆえに、ほえたけるとしても当然であります。泣き叫ぶとしても当然であります。「人の心は苦痛をも忍ぶ。しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。」

(7) いまや彼は罪から解き放たれることを真実に願い、それとたたかいはじめます。しかし彼は力をつくして努力しますが、勝つことができません。罪が彼よりも強いからです。彼はなんとかのがれようとします。しかし彼は牢獄にしっかりとつながれていて、出ることができません。彼は罪に抵抗しますが、罪を犯しっづけます。彼は罠を見、それを厭いつつ、そこに走り込んでしまいます。彼は誇りとする理性をかり出すのですが-------結局は自分の罪責を加え、悲惨を増すだけです。意志の自由とはそのようなもので、悪への自由、「水のように不義を飲む」 ことへの自由、生ける神からますます遠くさまよい出、ますます 「恵みの御霊を侮る」 自由であるにすぎません。

(8) 彼が自由になろうとつとめ、願い、労すれば労するほど、彼はくさりにつながれていることを強く感じます。それはサタンが彼をしばり、「とりこにして意のままにする」、悲しい罪のくさりであります。どんなに不平をいっても、彼はサタンの奴隷です。反抗しても、勝ち目はありません。彼はいまなお、罪のゆえに、奴隷と恐れのなかにあります。その罪は、一般的には、性質や習慣や外的環境によってとくに傾向づけられた、ある外的罪としてあらわれますが、しかし、いつも、ある悪しき気質や潔からざる感情という内的罪であります。そして彼がそれにたいしていらだてばいらだつほど、それは優勢になってゆきます。彼は自分のくさりを噛みますが、こわすことはできないのです。こうして彼はとめどなく苦労を重ね、悔い改めては罪を犯し、また悔い改めては罪を犯し、ついにこの哀れな、罪深き、絶望的な人間は、途方にくれて、ただ「ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか」 とうめくだけしかできなくなるのです。

(9) 「律法のもとに」 あり、「恐れと奴隷の霊」のもとにある人間のこの葛藤のすべてを、使徒〔パウロ〕は前章〔ローマ七章〕で、めざめた人の立場で語ることによって、美しくえがき出しています。「私はかつては、律法なしで生きていた」 (9節) と彼はいっています。つまり、私は生命と知恵と力と徳を多くもっていたというのです。そうだと私は思っていた。「しかし、戒めがくるにおよんで、罪は生き返り、私は死んだ。」戒めが、その霊的意味において、神の力を帯びて私の心にきたとき、私のうちに本来やどっていた罪が立ち上がり、波立ち、燃え上がり、それによって私の徳は死に絶えてしまった。「そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえって私を死に導いて行くことがわかった。なぜなら罪は戒めにょって機会を捕え、私を欺き、戒めによって私を殺したからである」 (10、11節)。それは気のつかぬまに私のところに来、私の希望を根もとから断ち、私が生のただなかにありつつ死んでいることを明白に示したのである。「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」 (12節)。私はもはや律法を責めず、私自身の心の腐敗を責める。私は 「律法は霊的なものである」と認める。「しかし、私は肉につける者であって、罪のもとに売られているのである」 (14節)。私はいまや律法の霊的性質と、「罪のもとに売られ」、まったくの奴隷状態におかれた (金で買われて、絶対的に主人の意のままになる奴隷のように) 私自身の肉的、悪魔的な心とを理解する。「なぜなら、私は自分の欲することはおこなわず、かえって自分の憎むことをしているからである」 (15節)。私がそのもとでうめいている奴隷状態はこのようなものであり、私の冷酷な主人の暴君ぶりはこのようなものである。「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これをおこなっている」 (18、19節)。「そこで、善をしようと欲している私に、悪がはいり込んでいるという法則」、内的拘束力 「があるのを見る。すなわち」 私は「内なる人としては、神の律法を喜んで」、あるいは同意して 「いるが」 (21、22節)-------「内なる人としては」 は、私の 「心」では、という意味であります (使徒自身がすぐあとの言葉でそのように説明していますし、「内なる人」という言葉は他のギリシアの著述家もそう理解しています)-------「私の肢体には、別の律法」、別の強制力があって、「心の律法」、すなわち内なる人 「にたいして戦いをいどみ」 「罪の法則」、すなわち罪の力 「のなかに、私をとりこにしているのを見る」 (23節)。いわば私を征服した者の戦車の車輪に結びつけ、私を私の魂が忌みきらうことへと引きずってゆくのである。「ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか」 (24節)。だれが私をこの助けなき死ぬべき生活から、この罪と悲惨の奴隷状態から解放してくれるのだろうか。このことがなしとげられるまで 「私自身 (あるいはその私、つまり私がその立場になっている人間) は心」、すなわち内なる人「では神の律法に仕えているが」-------私の心、私の良心は神の味方であるが-------「肉では」、すなわち私のからだにおいては、さからいがたい力によって駆り立てられて、「罪の律法に仕えているのである」 (25節)。

(10) これは 「律法のもとにある」人間についてのなんと生きいきとした描写でしょうか。彼は払い除くことのできない重荷を感じています。彼は自由と力と愛を慕いあえぎつつ、いまなお恐れと奴隷の状態にあります。それは神がこの不幸な人間の、この罪の奴隷状態から、この死のからだから 「だれが、私を救ってくれるだろうか」と叫ぶ声にたいして、「主イエス・キリストによる神の恵み」 と答えてくださるときまでつづくのであります。

3

(1) そのとき、この悲惨な奴隷状態は終わり、彼はもはや 「律法のもとにあるのではなく、恵みのもとにある」のであります。われわれは、第三に、この状態について考えなければなりません。それは、父なる神のまえに恵み、すなわち好意を得、その心を聖霊の恵み、すなわち力が支配し、使徒の言葉を用いれば、いまや 「アバ、父よ」 と叫ぶ 「子たる身分を授ける霊」 を受けた人の状態であります。

(2) 「彼が悩みのなかから主を呼ぶと、神は彼をその苦しみから助け出される。」彼の目は以前とはまったくちがった仕方で開け、愛する恵み深き神を見るようになります。彼が 「どうぞあなたの栄光を私にお示しください」と叫ぶと、彼はその魂の内奥で「私は私のもろもろの善をあなたのまえに通らせ、主の名をのべるであろう。私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」という声を聞きます。そしてほどなくして、「主は雲のなかにあって下り、主の名を宣べられ」 ます。そのとき彼は「主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、咎と、罪とをゆるす者」を見ます。しかし血肉の眼によってではありません。

(3) 天からの癒しの光が、いまや彼の魂にさし込んできます。彼は 「自分の刺した者を見」ます。「『闇のなかから光が照りいでよ』と仰せになった神が、彼の心を照らして」くださいます。彼はイエス・キリストの御顔に輝く、神の愛の光を見ます。彼は感覚的には 「見えない事柄」、さらには 「神の深み」 についての神的な「証明」をあたえられます。とりわけ、神の愛、イエスを信じる者にたいする神の赦しの愛の証明をあたえられます。見る力を増し加えられて、彼の魂はことごとく「わが主よ、わが神よ」 と叫びます。なぜなら彼は自分の不義がことごとく、「木にかかって、ご自分の体でそれを負われた」お方のうえに置かれているのを見るからです。彼は自分の罪を取り除きたもう神の子羊を仰ぎます。いまやなんと明白に、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、私たちが、彼にあって神の義となるためなのである」ということ、彼自身があの契約の血によって、神と和解していることを知らされることでありましょうか。

(4) ここにおいて罪のとがめと力はともに終わりを告げます。彼はいまや「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。しかし、私がいま肉にあって」 (すなわち、この死ぬべき肉体において) 「生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きているのである」ということができるのです。ここにおいて、悔いと心の悲しみと傷ついた霊の苦しみは終わります。「神は彼の憂いを喜びに変えられる」のです。彼は傷つけられましたが、いまや神の御手が包帯を結んでくださいます。ここにおいて、恐れをいだかせる奴隷の状態は終わります。なぜなら「彼の心は主を信じて堅く立っている」からです。彼はもはや神の怒りを恐れることはありえません。なぜなら、彼はいまやそれが彼から取り除かれたことを知り、神を、もはや怒れる審き主としてではなく、愛の父として仰ぐからです。彼は悪魔が 「上から賜わるのでなければ、なんの力もない」ことを知っているので、悪魔を恐れることはありえません。彼は地獄を恐れません。自分が天国の相続人だからです。したがって、彼は死を恐れません。この死のゆえに彼は過去長年にわたって 「奴隷となっていた」 のでしたけれど。むしろ「この地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えられている」ことを知っているので、「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと」熱心にあえぎ求めます。彼は、この地上の家がふるい去られて、「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」 ことをあえぎ求めます。それは神が「彼をこのことにかなう者にしてくださり、その保証として御霊を賜わった」 ことを知っているからであります。

(5) そして 「主の霊のあるところには、自由が」あります。それは罪責と恐れからの自由であるのみならず、罪からの自由、あのすべての軛のなかで最も重いもの、すべての奴隷状態のなかで最も下賤な状態からの自由であります。彼の労はいまやむなしくはありません。罠は破れて、彼は助け出されました。彼はつとめるだけでなく、優勢をも占め、戦うのみならず、勝利をも得るのです。「彼はもはや、罪の奴隷となることがない」 (六の6など)。彼は「罪にたいして死んだ者であり、神に生きている者である」。彼は 「その死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲にしたがわせることをしない」のです。彼は 「その肢体を不義の武器として罪にささげ」 ず、「むしろ、その肢体を義の武器として神にささげ」 ます。なぜなら、彼は「いまや罪から解放され、義の僕となっている」 からであります。

(6) こうして、「私たちの主イエス・キリストにより、神にたいして平和を得」、「神の栄光に与る希望をもって喜んでおり」、すべての罪、すべての悪しき欲望と気質と言葉と行為に打ち克つ力をもっているので、彼は 「神の子たちの栄光の自由」の生ける証人であります。彼らはすべて、同じ尊い信仰に与っている者として、声をそろえて「私たちは、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」 と証しをするのです。

(7) この御霊がたえず 「彼らのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、神の喜びとなしたもうことを実現にいたらせる」のであります。神にたいする愛と人類にたいする愛を彼らの心に豊かに満たし、それによって彼らの心を世にたいする愛、肉の欲、目の欲、生活上の誇りから潔めるのは神であります。彼らが怒りと誇り、邪悪で非道な愛着から救い出されるのは神によってであります。その結果、彼らは悪い言葉と行為、あらゆる潔からざる会話から救い出され、人の子らにたいしてはなんの悪をもおこなわず、よき業に熱心になるのであります。

(8) 総括しますと、生まれながらの人は神を恐れもせず愛しもしません。律法のもとなる人は神を恐れ、恵みのもとなる人は神を愛します。第一の人は神の事柄について光をもたず、まったく闇のなかを歩きます。第二の人は痛みをあたえる地獄の光を見ます。第三は喜ばしき天の光を見ます。死のなかに眠っている人は偽りの平和を得ています。目覚めた人はまったく光を得ません。信じる人は真の平和を得ています。神の平和が彼の心を満たし、支配するのです。洗礼を受けたにせよ受けないにせよ、本質的に異教徒である人は自由を得ていると空想していますが、それは実は放縦にすぎないのです。ユダヤ人もしくはユダヤ教的秩序のもとにある人は、重く悲しい奴隷状態にあります。キリスト者は神の子たちの真に光栄ある自由を楽しみます。目覚めることなき悪魔の子は喜んで罪を犯します。目覚めた人は不本意ながら罪を犯します。神の子は 「罪を犯さず」、「身をつつしんでいるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」のです。結論をいうと、生まれながらの人間は勝つこともなく、戦うこともありません。律法のもとにある人間は罪と戦いますが、勝つことができません。恵みのもとにある人間は戦って勝ち、実に 「自分を愛してくださる方によって、勝ち得てあまりがある」 のです。

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(1) 生まれながらの人と律法的な人と福音的な人という、人間の三重の状態に関するこの明白な解説から、人類を誠実なものと不誠実なものとに分けるだけでは不十分であることがはっきりします。人間はこれらのどの状態においても誠実でありうるのです。彼が 「子たる身分を授ける霊」を受けるときのみならず、「恐れをいだかせる奴隷の霊」を受けているときもまたそうでありうるのです。いな、彼がこのような恐れも愛ももっていないときでもそうなのです。なぜなら疑いもなく、誠実なユダヤ人や誠実なキリスト者が存在するのと同様に、誠実な異教徒も存在しうるのです。それで、このような情況は、人間が神に受けいれられる状態にあることを証明するものでは絶対にないのです。「ゆえに」、あなたがたは誠実であるかどうかということのみならず、「あなたがたは、はたして信仰があるかとうか、自分を吟味するがよい」。あなたの魂における支配原理がなんであるかを綿密に吟味していただきたい (なぜならそれはあなたにとってきわめて重要なことだからです)。それは神にたいする愛でしょうか。神にたいする恐れでしょうか。それともそのいずれでもないのでしょうか。むしろ世にたいする愛、快楽や利益、安逸や名声にたいする愛ではないでしょうか。もしそうだとしたら、あなたはユダヤ人の状態にも到達していないのです。あなたはまだ異教徒にすぎないのです。あなたは、心のなかに天を得ていますか。あなたは、アバ、父よといつも叫ぶ、子たる身分を授ける御霊をもっていますか。あるいはあなたは 「陰府のなかから」叫ぶように、悲しみと恐れに圧倒されて、神を呼ばれるのでしょうか。あるいはあなたはこのような事柄にまったく疎遠で、私がなにをいおうとしているのか想像さえできないのでしょうか。異教徒よ、仮面をはずしなさい。あなたはまったくキリストを着ていません。素面で立ちなさい。天を仰いで、永遠に生きたもうお方のまえに、あなたが神の子らのなかにも神の僕のなかにも分がないことを認めなさい。

あなたが何者であるにしても、あなたは罪を犯していますか、いませんか。もし犯しているとすると、それを喜んで犯しているのですか、それとも不本意ながら犯しているのですか。いずれの場合にせよ、神はあなたに、あなたがだれのものであるかを告げておられます。「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。」もしあなたがそれを喜んで犯しておられるなら、あなたは忠実な悪魔の僕です。彼は必ずあなたの労に報いてくれるでしょう。もし不本意ながらであるとしでも、あなたはやはり悪魔の僕であります。神があなたを彼の手から助け出されますように。

あなたは日々すべての罪にたいして戦っておられますか。そして日々勝ち得てあまりある状態でしょうか。そうなら私はあなたを神の子とみとめます。どうかあなたの光栄ある自由に堅く立ってください。あなたは戦うが勝てず、支配しようとつとめるがそれに到達できない状態でしょうか。そうならあなたはまだキリストを信じる者ではありません。しかしそれをつづけてゆけば、主を知るにいたるでしょう。あなたはまったく戦うことなく、安易で怠惰な、流行の生活を送っておられるのでしょうか。ああ、あなたはどうしてキリストの御名をあえてとなえられたのですか。それはキリストの御名を異教徒たちのあいだであなどられるべきものにするだけのことであります。眠れる者よ、起きよ。深淵があなたを呑みつくすまえに、あなたの神を呼びなさい。

(2) 多くの人は自分たちを事実よりも高く評価し、自分たちがどのような状態にあるのかを悟っていないのですが、その理由の一つはおそらく、これらの魂のいくつかの状態はしばしば混じり合っており、ある程度同一人のなかでふれ合っているためでありましょう。こうして、律法的状態、もしくは恐れの状態が生まれながらの状態と混じっていることがあるのは経験の示すところであります。なぜなら罪のなかにまったく眠り込んでしまっている人はほとんどいないのであって、ときどき多少は目覚めるものだからであります。神の御霊は 「人間の呼ぶのを待」ってはおられないように、ある場合にはご自分の語るのを聞かせようと意志されるのです。彼は彼らを恐れの状態に置かれ、すくなくともある時期には、異教徒も 「自分たちが人間であるにすぎないことを知る」ようにさせられます。彼らは罪の負荷を感じ、来たるべき怒りからのがれようと熱心に願います。しかしそれは長くはつづきません。彼らは有罪決定の矢が魂の奥深く突き入ってくるのにがまんできず、たちまち神の恵みをもみ消して、泥沼のなかでのたうつ状態に帰るのであります。

同様に、福音的状態、すなわち愛の状態はしばしば律法的状態と混じっています。なぜなら奴隷と恐れの霊を受けた人がいつも希望のないままでいるということはほとんどないからであります。知恵と恵みに富みたもう神がそのようなことをゆるされることはめったにないからであります。「なぜなら、神はわれらの塵であることを覚えていられるからである。」 そして彼は 「肉なる者、すなわちご自分の造った霊がご自分のまえで滅びることを」望まれないからであります。ゆえに、彼のよしと思われるときに、彼は暗黒のうちに坐する者たちに光をのぼらせたもうのです。彼はご自身の善きものの一部を彼らのまえに通りゆかしめ、彼が 「祈りをきかれる神」であることを示されます。彼らはまだはるか遠くにあるとはいえ、イエス・キリストにたいする信仰によってあたえられる約束を知ります。そしてそれによって「彼らの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬく」 ように励ましをあたえられるのであります。

(3) 多くの人が考えちがいをするいま一つの理由は、人間がひじょうに高い状態に進んでも、なお生まれながらの状態、もしくはせいぜい律法的状態にある場合がありうるのだということを考えないためであります。同情に富み、慈悲深い気質をもった人がいます。やさしく、礼儀正しく、温和で、親切な人があります。彼はある程度柔和で忍耐強く、節制し、その他の道徳的美徳をそなえていることもありましょう。彼はすべての悪徳を払いのけ、高い徳の段階に到達したいという願いを強くもっていることもあります。彼は善に励み、餓えた人に食べさせ、裸の人に着せ、やもめとみなし児を救うでしょう。彼は公礼拝に出席し、密室の祈りをつねとし、信仰的な書物を読んでおりましょう。しかし結局は、彼がたんなる生まれながらの人間であり、自分自身をも神をも知らないということもありうるのです。同様に、恐れの霊と愛の霊とかかわりなく、悔い改めることもなく福音を信ずることもないこともありうるのです。

しかし、これらのうえにさらに罪の深い自覚と神の怒りにたいする大きな恐れがつけ加えられたと仮定しましょう。さらにすべての罪を投げ捨てたいというはげしい欲求を感じ、望みをいだいて喜び、一片の愛が魂をかすめることもありましょう。しかしこれらとて、子たる身分を授ける御霊が彼の心に住み、絶え間なく「アバ、父よ」 と呼びうるのでなければ、人が恵みのもとにあり、真の生きたキリスト教信仰をもっていることの証明にはならないのであります。

(4) ですから、キリストの名によって召されているあなたが、あなたの高い召命の目標に達しないということのないよう、注意していただきたいのです。善良なキリスト者とみなされているひじょうに多くの人たちとともに、生まれながらの状態にとどまったり、すぐれた人物と評される人びとがその状態で生きかつ死ぬことに満足しているところの、律法的状態にとどまっていることのないように注意していただきたいのです。いな、もしあなたが目的に到達するまで進みつづけるならば、神はあなたにさらによきものをそなえていてくださるのであります。あなたが召されたのは、悪魔のように、恐れおののくためではなく、神の御使たちのように喜び愛するためであります。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」 「いつも喜び」「絶えず祈り」 「すべてのことについて、感謝し」ていなければなりません。神の御意志の天になるごとく、地においてもなさなければなりません。ああ、「なにが善であって、神に喜ばれ、かつまったきことであるかを」 証ししなければなりません。いま、あなた自身を 「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」ささげなさい。「まえのものに向かってからだを伸ばす」 ことによって、「すでに達しえたことを、しっかりと保」っていなさい。「平和の神が、イエス・キリストによって、御意志にかなうことをあなたにしてくださり、あなたをすべての善き業によって完全にしてくださるように」 なるときまで、そう努めていただきたい。「栄光が、世々かぎりなく神にあるように。アーメン。」


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